自然 奥深くて面白い(5月6日、キジの声)

昨日はキジの声がうまく取れず残念でした。今日も近くの田園を自転車で通っていったら、いました!!早速、自転車を降りて、「今日は取ろう」と思って、いくつか動画を撮りました。長いといけないので、15秒ぐらいの長さで、取り直していたら、3本目にこんな姿を見せてくれました。0:10のあたりで羽をバタバタさせて、▽▲?と鳴いています。人間の言葉にはできない声です。

皆さんの力で、鳴き声を表してみてください。

本には、キジの鳴き声は「ケーン」と書かれています。昔から、キジの鳴き声は、「ケーン」でした。が、聞いてみて、どうでしょうか?

以前、わたしの大学時代ですが、わたしの友だちが、小学校の時、作文にカラスの鳴き声を「クワッ、クワッ」と書いたそうです。そうしたら、先生に注意されて、カラスは「カー、カーだ」と言われたそうです。それ以来、彼は、「作文が嫌になった」と言ってました。聞こえたままを表現することが難しいと共に、「クワッ、クワッ」と表現した彼の表現を、虚心に受け止められなかった先生のことを想像していました。

子供は傷つきやすい。大人には感じられない感性を持っているのに、大人の「常識」で閉じ込めてしまう。ことに触れて感じる感性を失っていってしまう。本来、多様性に彩られた世界、多様性に満ちた人間を、決められた言葉でレッテル貼りして、あるがままの多様性から遠ざけていってしまう。「このことはこういうこと」「あのことはこういうこと」それが、あたかも分かったことであるかのように。そして、みずみずしい感性は、どんどん失われていってしまう。そして、今の人工物に囲まれた世界。すべてのこと、ものも人間までも数値化され、言葉で切り取られ、言葉化できるデジタル化された世界が世界のすべてであるかのように認識するようになってしまう。微妙な、言葉にならない世界を受け止める力がなくなっていく。きらびやかではあっても、殺伐とした風景が広がっていくだけのように思えてしまう。

自然は千変万化する。数値化しても、その数値によっては表現しえない、把捉しえない部分が膨大に残される。その数値や言葉の外にある余白を感じることが、すごく大切なことのように思います。